ホーム > 日本・オーストリア友好150周年記念年 > カール・ハプスブルグ=ロートリンゲン大公について

カール・ハプスブルク=ロートリンゲン大公

(カール・トーマス・ロベルト・マリア・フランツィスクス・ゲオルク・
バーナム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン
Karl Thomas Robert Maria Franziskus Georg Bahnam von Habsburg-Lothringen)

カール・ハプスブルク=ロートリンゲン写真 © Katharina Schiffl

  ハプスブルク=ロートリンゲン家の現当主。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクの長男、最後のオーストリア皇帝カール1世の孫。西ドイツバイエルン州生まれ。
ヨーロッパ諸国の王侯貴族やローマ教皇、王党派からは今なお「オーストリア大公」や「殿下」などの伝統的称号・敬称で呼ばれる。オーストリア、ハンガリー、ボヘミア、クロアチア等の帝位・王位請求者とされている。
生誕当時、オーストリア共和国は王朝との絶縁を宣言しなければハプスブルク家の入国を認めなかったため、父オットーはオーストリア入国のためにハプスブルク王朝と絶縁することと、あらゆる支配権の要求を放棄することを宣誓した。
ミシガン州立大学で法学と哲学を学んだ後、徴兵でオーストリア空軍に所属。1981年よりザルツブルク在住。



1986年、国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部の代表。
1989年、元オーストリア皇后で祖母のツィタ・フォン・ブルボン=パルマが96歳で崩御。
1993年にはティッセン=ボルネミッサ男爵家のフランツェスカと婚姻。
1996年1999年まで、欧州議会議員(オーストリア国民党)。
2000年、オットーから金羊毛騎士団長の座を譲られた。
2002年から同年12月31日まで、代表なき国家民族機構の事務局長。
2007年、オットーからハプスブルク家の家督を正式に譲られた。
2008年、ブルーシールド国際委員会の初代代表に就任。
2011年7月4日、父オットーが98歳で死去。ローマ教皇ベネディクト16世が発した弔意の宛先は、「Seiner Kaiserlichen Hoheit Erzherzog Karl von Österreich(オーストリア大公カール殿下)」だった。
2016年にはハプスブルク一門でバチカン宮殿を訪問、ローマ教皇フランシスコに謁見。

役職・事業

国際汎ヨーロッパ連合オーストリア支部長(1986年 - )
欧州議会議員(1996年 - 1999年)
代表なき国家民族機構事務局長(2002年1月19日 - 2002年12月31日)
ブルーシールド国際委員会代表(2008年 - )
オランダ、ウクライナ、ブルガリア、オーストリアのメディア事業を手掛ける事業家でもある。



参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋



尚、長男フェルディナンド・ズヴォニミル・ハプスブルグ-=ロートリンゲン(21歳)は現在、F3のレースドライバーとして活躍している。
また、帝国最後の皇太子であった父オットー氏が2008年ウィーン訪問時にクローネマキコは面会した。

このイベントのちらしと共に カール大公が、このイベントのちらしを持って下さっている写真がウィーンから届いて、光栄です✨

PAGE TOP

プライバシーポリシー | 2010 Copyright © 日本・オーストリア文化交流会 Kleine Krone All rights reserved